2010.03.02 Tuesday
『死』に直面して、尊い仏様のみ教えにお出逢いする《ご利益体験談》
廣宣寺所属信徒:奥野洋子
平成17年5月号 婦人会御講(隆宣寺交流参詣)ご披露分
この世に生れたら、必ずセットになっている「死」について、私自身の体験をお話させて頂きます。
私は、今まで自分が「死ぬ」存在だと実感したことが2回あります。一つは、今からちょうど10年前の阪神淡路大震災の時、そしてもう一つは、交通事故に遭った時でした。皆さんはどうでしょうか。これまでの人生で、「死」を実感する場面に遭遇されたことはあるでしょうか。ここにいらっしゃる大半の方は、恐らく阪神淡路大震災を体験された方々でしょうし、皆それぞれに違う体験をされてきたことでしょう。
私は、あの地震の起きた時、お風呂に入っていました。その時、京都にある大学に通っていましたので、朝のあの時間は、お風呂に入るのが日課となっていたからです。ゴォーッという地鳴りがこちらに近づいてきて、いきなり真下でドォーンという爆音と共に、上下にすごく揺れました。湯船の中がまるで波のあるプール状態になったのを覚えています。地震の揺れがおさまってから、家族の安否を確認しました。家族は皆無事でしたが、家が西へ傾いて、土壁が落ち、階段に隙間がたくさんできた状態でした。日が昇り、明るくなってから、2階の自分の部屋へ行ってみて、呆然としました。本棚からは本が飛び散り、部屋の中もぐちゃぐちゃ。なによりショックだったのは、『大学で勉強していたスペイン語も、所属していた考古学研究会の文献類も、大切に持っていた辞書や辞典の類も、そんなものは「自分が死ぬかもしれない」という瞬間、何一つ役に立たない』という事実でした。
私はなぜか、小さい時から困難にぶつかると「勉強していたら、いつかきっと困難を乗りこえられる」と考えてきました。しかし、これまでそう考えて勉強してきたことは、この非常事態、自分が死ぬかもしれないという時には、全く支えになりませんでした。今まで、なんとなくそこにあってあたり前だったもの、例えば「生きているということ」「普段の生活」「家族や街」など、地震で豹変して、全く知らないものになったショック。なんとなく自分は大丈夫、「死ぬ」なんて考えたこともなかったのに、いきなりその事実が目の前につきつけらたショックは、大きいものでした。
地震後、1ヶ月は地面がまるでスポンジのようにやわらかく揺れて見え、半年は、背中中に吹き出物が出て、精神的に不安な状態が続きました。私は、その後猛烈に「何を支えにしたらいいのか」を探し求め始めました。ただ自分の中に「死」というものがある、ということを許容し始めました。
そして、地震の3年後、今度は交通事故に遭いました。私は、3台玉突きの一番前の車に乗り合わせていました。事故の起る直前「あっ危ないかもっ」と、後ろを振り返った瞬間、車が玉突き状態になりました。まるでビデオのこま送りの画面のように、いろんな状況や、人の表情が一つ一つ、ゆっくり動いて見えて、びっくりしたことを覚えています。後ろの車のリヤ・ウインドが割れる様子。粉々に割れたガラスの破片が空中に、ゆっくり、ゆっくりまって見えたのには驚きました。そして、自分の乗っていた車に、後ろの車が追突した瞬間、その衝撃で目が覚めたかのように、いつもの感覚に戻って景色が見えました。
首と腰の椎間板ヘルニアということで、事故後1年半程通院生活をしていました。その時、理解したことは、突然「死」が訪れることもある、ということでした。前回地震で、それこそ突然「死」と向かい合っていても、「死ぬ」ということが、私に関係して存在するということを許容するのがやっと。そして、交通事故の体験で、年老いて亡くなる以外に、いきなり亡くなることもあると、本当に実感しました。そんなことは、ニュースや身近にも見聞きすることだと言われそうですが、「この私自身に起る」という実感は初めてでした。
そしてその後は、死のとば口に立って「どこへ帰るのか」「どうやって帰るのか」が、大きな、大きな疑問点として浮かびあがってきました。今、お寺でご法門を聴聞させて頂いて、教えて頂いていることは、ご法さまの所、お題目さまの中へ帰ったらいいということ、そしてかえる方法はお題目の船に乗って帰るということ、です。そして、死ぬ瞬間、一発勝負でお題目をお唱えするのでなくて、生きているうちから、常々にお題目をお唱えしておくことの大切さを教えて頂いています。普段の生活でも、もし生きたい土地があれば、まずその土地のことを調べて、次にどうやってそこへ行くのか。交通手段を選び、スケジュールを組みます。ご法さまの世界も、きっと同じようなものかもしれません。死の先にあることも、勝手に誰かがレールを用意してくれているのでなく、ここで生きているうちに準備しておく必要があるということなのでしょう。そして、その方法をご法さまが教えて下さっているのだと思います。
ただ一つ、大きな違いがあります。この世での旅行の予定は、出発日を私たちが決めることができます。しかし、あの世に旅立つ時というのは、「じゃあ、私何日の何時に出発します」とは、きめることができない。いつかは全くわからないということです。ですから、お導師をはじめ、お講師方が「今、やっときなさい、できるご奉公はさせて頂きなさい」と私たちにおっしゃって下さってるのだと思います。私たちは幸い「死の先にあること」、そして「今、何をやっとかなければいけないか」を、お寺で教えて頂けます。そして、今まで知らなくてやってきたバカなことを、お題目を唱えすることで浄化して、修正できます。すごくありがたいことだと思います。
今、お話した二つの体験を通して、私は自分の中に「死」という存在を見つけました。そして今からちょうど1年前に、お寺にお参りしだしました。そして、その参詣中、特に朝参詣のご法門の中に「死」の先にあること、今、どういう状態にあるかということ、ここで何をしとけばいいのかということ、「たくさんの生きる指針」と、「死に向けての準備」と、「死んだ後のこと」を教えて頂いています。ありがたい限りやと思っています。というのは、今私たちは、日本語で、それも近所のお寺で、仏さまの説かれた教えを聞かせて頂けるからです。
以前、少しだけチベット仏教の仏道修行の仕方を本で読みましたが、たくさんの戒律を守り、仏教の理論をたくさん勉強しなければなりません。まして、死の瞬間には、たくさんの瞑想があって、自分の死の兆候を読みとって、その都度、その段階にあわせた瞑想をスムーズにするなんて、私にはできそうもない難しい修行やなあ、と肩をおとしました。しかし今、本門仏立宗の修行の中心は、いつでもお題目をお唱えすること。そしてお題目、ええよと人におススメすること。生きてるときも、死の瞬間も、お題目一つでいいんですよ。チベット仏教で読みかじった、あのたくさんな瞑想がいらないなんて、なんと、なんと、いい教えなんやろと感謝しています。これなら、ちびっ子でも、年老いても、男の人でも、女の人でも、こちらの世俗の生活を、全てすてないでも、仏道修行させて頂けて、幸せになれるのだからすごくありがたいなあ、と思います。
私にとって、「死」に直面したこの二つの体験が、教えを求める原動力になっているのは確かです。「死」のとば口に手ぶらで立って、どうすればいいのかわからなくて、ショックだったことが今、お寺に足が向いて、教えを求めることに大きくつながっているのだから、二つの体験のおかげやなあと、しみじみ感じます。
今日は、自分の中に「死ぬ」ということを実感した、二つの体験を通して、教えに出遭えたありがたさを、お話しさせて頂きました。
どうもありがとうございました。
合掌


