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【本門佛立宗 廣宣寺 -kosenji.mobi-】

兵庫県西宮市にある寺院 本門佛立宗 廣宣寺のモバイル版WEBサイト
『死』に直面して、尊い仏様のみ教えにお出逢いする《ご利益体験談》
廣宣寺所属信徒:奥野洋子
平成17年5月号 婦人会御講(隆宣寺交流参詣)ご披露分

この世に生れたら、必ずセットになっている「死」について、私自身の体験をお話させて頂きます。

私は、今まで自分が「死ぬ」存在だと実感したことが2回あります。一つは、今からちょうど10年前の阪神淡路大震災の時、そしてもう一つは、交通事故に遭った時でした。皆さんはどうでしょうか。これまでの人生で、「死」を実感する場面に遭遇されたことはあるでしょうか。ここにいらっしゃる大半の方は、恐らく阪神淡路大震災を体験された方々でしょうし、皆それぞれに違う体験をされてきたことでしょう。

私は、あの地震の起きた時、お風呂に入っていました。その時、京都にある大学に通っていましたので、朝のあの時間は、お風呂に入るのが日課となっていたからです。ゴォーッという地鳴りがこちらに近づいてきて、いきなり真下でドォーンという爆音と共に、上下にすごく揺れました。湯船の中がまるで波のあるプール状態になったのを覚えています。地震の揺れがおさまってから、家族の安否を確認しました。家族は皆無事でしたが、家が西へ傾いて、土壁が落ち、階段に隙間がたくさんできた状態でした。日が昇り、明るくなってから、2階の自分の部屋へ行ってみて、呆然としました。本棚からは本が飛び散り、部屋の中もぐちゃぐちゃ。なによりショックだったのは、『大学で勉強していたスペイン語も、所属していた考古学研究会の文献類も、大切に持っていた辞書や辞典の類も、そんなものは「自分が死ぬかもしれない」という瞬間、何一つ役に立たない』という事実でした。

私はなぜか、小さい時から困難にぶつかると「勉強していたら、いつかきっと困難を乗りこえられる」と考えてきました。しかし、これまでそう考えて勉強してきたことは、この非常事態、自分が死ぬかもしれないという時には、全く支えになりませんでした。今まで、なんとなくそこにあってあたり前だったもの、例えば「生きているということ」「普段の生活」「家族や街」など、地震で豹変して、全く知らないものになったショック。なんとなく自分は大丈夫、「死ぬ」なんて考えたこともなかったのに、いきなりその事実が目の前につきつけらたショックは、大きいものでした。

地震後、1ヶ月は地面がまるでスポンジのようにやわらかく揺れて見え、半年は、背中中に吹き出物が出て、精神的に不安な状態が続きました。私は、その後猛烈に「何を支えにしたらいいのか」を探し求め始めました。ただ自分の中に「死」というものがある、ということを許容し始めました。

そして、地震の3年後、今度は交通事故に遭いました。私は、3台玉突きの一番前の車に乗り合わせていました。事故の起る直前「あっ危ないかもっ」と、後ろを振り返った瞬間、車が玉突き状態になりました。まるでビデオのこま送りの画面のように、いろんな状況や、人の表情が一つ一つ、ゆっくり動いて見えて、びっくりしたことを覚えています。後ろの車のリヤ・ウインドが割れる様子。粉々に割れたガラスの破片が空中に、ゆっくり、ゆっくりまって見えたのには驚きました。そして、自分の乗っていた車に、後ろの車が追突した瞬間、その衝撃で目が覚めたかのように、いつもの感覚に戻って景色が見えました。

首と腰の椎間板ヘルニアということで、事故後1年半程通院生活をしていました。その時、理解したことは、突然「死」が訪れることもある、ということでした。前回地震で、それこそ突然「死」と向かい合っていても、「死ぬ」ということが、私に関係して存在するということを許容するのがやっと。そして、交通事故の体験で、年老いて亡くなる以外に、いきなり亡くなることもあると、本当に実感しました。そんなことは、ニュースや身近にも見聞きすることだと言われそうですが、「この私自身に起る」という実感は初めてでした。

そしてその後は、死のとば口に立って「どこへ帰るのか」「どうやって帰るのか」が、大きな、大きな疑問点として浮かびあがってきました。今、お寺でご法門を聴聞させて頂いて、教えて頂いていることは、ご法さまの所、お題目さまの中へ帰ったらいいということ、そしてかえる方法はお題目の船に乗って帰るということ、です。そして、死ぬ瞬間、一発勝負でお題目をお唱えするのでなくて、生きているうちから、常々にお題目をお唱えしておくことの大切さを教えて頂いています。普段の生活でも、もし生きたい土地があれば、まずその土地のことを調べて、次にどうやってそこへ行くのか。交通手段を選び、スケジュールを組みます。ご法さまの世界も、きっと同じようなものかもしれません。死の先にあることも、勝手に誰かがレールを用意してくれているのでなく、ここで生きているうちに準備しておく必要があるということなのでしょう。そして、その方法をご法さまが教えて下さっているのだと思います。

ただ一つ、大きな違いがあります。この世での旅行の予定は、出発日を私たちが決めることができます。しかし、あの世に旅立つ時というのは、「じゃあ、私何日の何時に出発します」とは、きめることができない。いつかは全くわからないということです。ですから、お導師をはじめ、お講師方が「今、やっときなさい、できるご奉公はさせて頂きなさい」と私たちにおっしゃって下さってるのだと思います。私たちは幸い「死の先にあること」、そして「今、何をやっとかなければいけないか」を、お寺で教えて頂けます。そして、今まで知らなくてやってきたバカなことを、お題目を唱えすることで浄化して、修正できます。すごくありがたいことだと思います。

今、お話した二つの体験を通して、私は自分の中に「死」という存在を見つけました。そして今からちょうど1年前に、お寺にお参りしだしました。そして、その参詣中、特に朝参詣のご法門の中に「死」の先にあること、今、どういう状態にあるかということ、ここで何をしとけばいいのかということ、「たくさんの生きる指針」と、「死に向けての準備」と、「死んだ後のこと」を教えて頂いています。ありがたい限りやと思っています。というのは、今私たちは、日本語で、それも近所のお寺で、仏さまの説かれた教えを聞かせて頂けるからです。

以前、少しだけチベット仏教の仏道修行の仕方を本で読みましたが、たくさんの戒律を守り、仏教の理論をたくさん勉強しなければなりません。まして、死の瞬間には、たくさんの瞑想があって、自分の死の兆候を読みとって、その都度、その段階にあわせた瞑想をスムーズにするなんて、私にはできそうもない難しい修行やなあ、と肩をおとしました。しかし今、本門仏立宗の修行の中心は、いつでもお題目をお唱えすること。そしてお題目、ええよと人におススメすること。生きてるときも、死の瞬間も、お題目一つでいいんですよ。チベット仏教で読みかじった、あのたくさんな瞑想がいらないなんて、なんと、なんと、いい教えなんやろと感謝しています。これなら、ちびっ子でも、年老いても、男の人でも、女の人でも、こちらの世俗の生活を、全てすてないでも、仏道修行させて頂けて、幸せになれるのだからすごくありがたいなあ、と思います。

私にとって、「死」に直面したこの二つの体験が、教えを求める原動力になっているのは確かです。「死」のとば口に手ぶらで立って、どうすればいいのかわからなくて、ショックだったことが今、お寺に足が向いて、教えを求めることに大きくつながっているのだから、二つの体験のおかげやなあと、しみじみ感じます。

今日は、自分の中に「死ぬ」ということを実感した、二つの体験を通して、教えに出遭えたありがたさを、お話しさせて頂きました。
どうもありがとうございました。

合掌
| ■ご利益体験談 | 11:14 | - | - | pookmark |
幸せになる方法は、目の前にあるのです。《御法門:山内良鷲師》
今週は、気付いて、実践させていただけば、幸せになれると言うお話しです。

さて、「妙法蓮華経」というお経は28章に分かれています。その16章「如来寿量品」(にょらいじゅりょうほん)には、次の様な譬え話しが説かれています。

【良医治子(ろういじし)の譬え】
ある国に学識豊かで知恵もある名医がおり、またこの名医は大勢の子供たちの父親でもありました。 
ある時、父親が旅に出ている間に、子供たちが誤って薬棚にある毒薬を飲んでしまいました。家に帰った父親は、もがき苦しむ子供たちを見て、あわてて薬を調合し飲ませようとしました。
症状の軽かった大きな子供たちは、薬を飲んですぐに治りましたが、まだ小さな子供たちはマズイとかニガイと嫌がって、薬を飲もうとしません。

名医は思いました。何と言うことだろう。この小さな子供たちは、もがき苦しみ、助けを求めていながら薬を飲もうとしない。このままでは命まで落としてしまうだろう。兄弟達が薬を飲み、元気になる様子を見ているのにもかかわらずだ。これは心まで毒に犯されてしまったに違いない。どうすれば、この小さな子供たちを救うことが出来るだろう。

名医は知恵を絞り、やり残した仕事があるからと言って、旅支度をして家を出ました。
しばらくして、隣国から突然父親が死んだと、人を使わせて子供たちに伝えさせたのです。

子供たちは、父親の死という現実に直面し、悲しみのあまり正気に戻り、父から与えられた薬のことを思い出し、それを飲んで、全員が助かりました。
父の死の知らせは方便(ほうべん・手だて)で、父の元気な姿を見た息子達は、さらに喜びました。
 
この譬え話に出てくる小さな子供たちを、「為凡夫顛倒(いぼんぶてんどう)の衆生(しゅじょう)」と言います。
「凡夫」とは人間のこと、「顛倒」とは物事を逆さまに見るということで、苦を楽と見・楽を苦と見る。仏様の教えを素直にいただけば幸せになれるのに、逆さまに捉えて素直に実践出来ない人のこと。
平成の時代に生きる私達は、正に「為凡夫顛倒の衆生」だと言えるでしょう。

仏様は、「如来寿量品」に次のように説かれています。
「是(こ)の好(よ)き良薬(ろうやく)を今留(いまとど)めて此(ここ)に在(お)く。汝取(なんじと)って服(ふく)すべし、差(い)えじと憂ふる(うれうる)ことなかれ。」
このお経文は、「ここに、何にでも効く特効薬を置いておくから、それを飲みなさい。決して苦しみが癒えないと憂うことはないんだよ」と、仏様が私達に語りかけておられるのです。

「大良薬」とは「御題目」のことで、同じく「如来寿量品」には、「色香美味(しっこうみみ、皆悉具足(かいしつぐそく)」と御題目は、色も香りも味も、全てパーフェクトな「お薬」であると説かれています。

私たちが、南無妙法蓮華経と御題目をお唱えすることは、そのお薬を素直にいただいていることに他なりません。まずはお唱えしてみることです。信仰とは頭で理解することではなく、実践して身体と心で感じることが大事なのです。

【佛立開導日扇聖人の御教歌】
のんで見て御利益を得てなる程と そこで薬の第一をしる
| ■御法門 | 18:17 | - | - | pookmark |
野に咲く梅のように《御法門:松本良光師》
2月の花といえば、やはり私は梅を一番に思い浮かべます。まだまだ寒さの残るこの季節に、力強くも可憐に咲いている梅の花。香りも美しさも際だっていますよね。まさに、厳しい自然がそのように作りあげるに違いありません。そんな梅の花を見て、私たちはその美しさと香りに酔いしれ、また力強く咲いている姿からは勇気をもらったり、励まされたりするものです。
 
梅

その一方で、梅の花も他の花と同様に温室で育てられたものがあります。季節を一歩先取りして、部屋に飾られた梅の花も、私たちの目を楽しませてくれます。ただ、室内で育てられた梅の花は、やはり自然のものより、香りも美しさも劣っているもの。梅の花がかもしだす勢いが違うのです。それに、室内で育てた梅の花は外に出すことができません。そんなことをすれば、厳しい自然環境に適応しきれず、梅の花はあっという間に枯れてしまうことでしょう。やはり、自然の梅こそ本物なのです。

これは人間でも同じことがいえます。この厳しい社会の中で色んな苦労をし、辛い経験を味わいながら努力を重ねていく。そういった生き方をしてきた人たちは、やはり自然の梅のように力強く、気高いものです。反対に、そういった苦労や努力をしてこなかった人。いわゆる【温室育ち】の人たちは、困難を乗り切る経験がない分、どうしても弱いものです。まさに、室内で育てた梅と同じで、「社会」という厳しい環境にさらされた時には、あっという間にダメになってしまうことが多いといえるでしょう。

ここで問題なのは温室育ちの人たちではなく、【温室で育てた人】。つまり、育て方に問題があったということです。人の育成の仕方について、開導聖人は梅の花を喩えにされて次のように御教歌下されています。

【佛立開導日扇聖人の御教歌】
だまされてさいたる室のうめなれば さむい所へ出されざりけり
御題・気儘そだての子は人なみにならず
(開化要談 一・扇全十三巻三九頁)
*「暖かい室内で咲かされた梅の花は寒い所に出すことなどできない」
→「温室育ちの人間は社会という厳しい環境に適応することができない」との意

【温室育ち】の原因は育成者の「気儘(きまま)育て」に外なりません。要は、育成者が自分の思う通り、好き放題に育てるということです。そして、そんな育て方をされた温室育ちの人たちは「人並みにならない」、非常に脆い人間となってしまうのです。これは育児だけではなく、あらゆる育成の現場でも同じことがいえます。人にものを教え、育成をする立場にある人は、よくよく肝に銘じておかなければなりません。

では、どのように育成をすればよいのか。それは何事もきちんとありのままを伝え、【正しい】と【間違い】をハッキリと教えてあげることです。相手の顔色を伺いながらコロコロと判断を変えてはいけません。「正しいものは正しい」「間違いは間違い」を貫く。決して育成者の我を出してはいけない、「気儘育て」は禁物なのです。

誰もがわかっていることですが、自分の体を鍛えられるのも、自分の心を鍛えられるのも、当の本人だけです。しかし、それでも育成する側からすれば、本人が辛い、苦しい思いをするのは見たくないと思ってしまうもの。ついつい手をゆるめてしまうことがあるかもしれません。ただ、そうすることで将来もっと辛く、悲惨な目に遭うのは外でもない、当の本人なのです。

こんな時、世間ではよく「ここは心を鬼にして…」などといいますが、それは間違いです。心を鬼にした時点で、きっと教える内容も教え方も間違っていることでしょう。それではいけません。そうではなく、相手のことを本当に心の底から思いやることが大切。つまり、思いやりが極まることで自然と本当のことを教えずにはいられなくなる。そうなれば、たとえ、本人にとっては多少厳しいことであったとしても、正しいことをきちんと教えられるものです。その時の心はまさに鬼どころか仏菩薩の心に等しいといえます。これこそ本物の思いやり、本物の育成なのです。

どうかお互いに、厳しい寒さの中でも凛と花を咲かせている、そんな気高い梅のような人間となれますように、しっかりと自らを律すると共に正しい育成につとめてまいりましょう。それでこそ共々に向上していくことができるのです。

| ■御法門 | 21:20 | - | - | pookmark |
今は何に挑戦していますか?《御法門:山内良聴師》
年が明けて、一か月以上たちます。
新しい年の抱負を皆さんはどのように掲げていますか?
現在、その目当てに向かって、何か行動を起こしているでしょうか。

私が子どもの頃は、学校の先生に「新学期の抱負は何かな?」と問われて、いろいろと答えていました。けれども、それに対して全く意識して取り組んでいなかったという思い出があります。心から達成したいと思っていないその場限りの抱負だったと思います。

年を経るにしたがって、人に抱負を語ることもなくなり、未来に向けて自分の願いというのもあるような無いような。ただ目の前のしなければならないことに振り回されている。このような日常を過ごしている方も多いのではないでしょうか。

とはいえ、普段は意識していないにしても「せっかくの人生だから、後悔の無いようにしたい。」これは、すべての人が持つ未来に向けての抱負だと思います。そして、その抱負を実現するためには、今からそこに向けて行動を起こさないと「子どもの頃の抱負と一緒」で、ただ時間が過ぎるばかりとなってしまうでしょう。

昨年のプロ野球イチロー選手は、WBCで日本を二度目の世界一に導き、メジャーリーグ史上初の9年連続200安打という偉業を成し遂げました。そのイチロー選手は現在、アメリカメジャーリーグのシアトルマリナーズに在籍していますが、以前、ヤンキースへの移籍話があったそうです。

ヤンキースといえば、ワールドシリーズ(メジャーリーグ一位を決める試合)を何度も制覇しているメジャーリーグ屈指の名門です。そんなチームから声が掛かったにもかかわらず、彼はマリナーズに残留しました。

「移籍してしまうと、ヤンキースにいる一流のピッチャーと対戦できなくなるから」ということが、残留した要因だったそうです。

ヤンキースに入れば年俸も上がるし、名ピッチャーとも同チームになれば対戦することも無くなり楽になる。普通はこのように考えるはずです。しかし、彼は違いました。見ているところが普通とは違ったのです。彼は安打を打つということ、自らのバッティング技術の向上に目を向けていたのです。それで、ヤンキースへの移籍よりも、名ピッチャーとの対戦を望んだわけです。
ぶれずに自らの信条にしたがって、目先の利を取らなかった。本当にすごいと思います。そんなイチロー選手だからこそ、メジャーリーグ史上初の9年連続200安打という偉業を成し遂げられたのでしょう。

論語には次のような語があります。
「之を如何せん、之を如何せんと曰はざる者は、吾之を如何ともするなきのみ。」
どうしようか、どうしようかと言わないような者に対しては、私もどうにもしようがない。

孔子が弟子教育について述べた言葉。自ら求めようとしない人には、どうにも教育のしようがないと孔子は言います。人は目当てとすることを心に置いて、普段からそれに対してどうしようかと思念しておかなければ、進歩向上は難しくなるのです。
「後悔のない人生」を目指すのであれば、そこに心を置いて意識し続けることが大切です。そうしませんと、目先の楽しいことに振り回されて「人生振り返れば何もない」ということになりかねません。

「せっかくの人生だから、後悔の無いようにしたい。」
ご信心は、この抱負を実現するための教えを学び、実践するものです。
お祖師様(日蓮聖人)は「まず、臨終のことを先に習いなさい」と教えてくださいました。やはり、大切な人生だからこそ最後のことを考えて、後悔しないように意識して、自らの行いを見つめ続けなければなりません。
普段の生活に加えてご信心に励むには、相応の労力がいります。ですが、ご信心によって得られるものはとても大きなものなのです。

【佛立開導日扇聖人の御教歌】
骨折て覚えた時のうれしさは 文字ばかりにも限らざりけり
(遺授緊要抄 初編・扇全二十八巻三四八頁)

「努力して文字を習って、はじめて自分の名前を漢字で書けるようになった。本当に嬉しいものである。この嬉しさは、文字を習うことだけに限らない。労力をかけたからこそ、得られる喜びが大きいのである。」このようにお示しです。

「せっかくの人生、後悔の無いようにしたい」
この人生の抱負を実現するために、お互いにご信心に励ませていただきましょう。
| ■御法門 | 15:17 | - | - | pookmark |
ファミリーデーに参詣する理由《御法門:山内良鷲師》
WEB御法門のページを見て下さって、ありがとうございます。
今回は、今年から始まった「ファミリーデー」についてお話しさせていただきます。

本門佛立宗では、ご信者同士のご挨拶は、「おはよう」でもなければ、「こんにちは」でもありません。いつでも何処でも、ご信者同士が顔を会わせれば、「ありがとうございます」とご挨拶をさせていただきます。

何故「ありがとうございます」なのでしょう。「ありがとうございます」ですから、感謝の気持ちを表していることは間違いないでしょうが、ご挨拶させていただく相手に感謝をしているのでしょうか。当然、それもありますが、実はもっともっと深い理由があるのです。
その理由は、「ファミリーデー」に参詣され、お導師の御法門を聴聞いただけば、良くご理解いただけると思いますが、ここでは一番大事な理由をお話しましょう。

そもそも「ファミリーデー」の法要とは、廣宣寺所属の全ご信者が、御題目のみ教えを伝えて下さった方々、高祖日蓮聖人、門祖日隆聖人、開導日扇聖人に感謝してお勤めさせていただく法要です。
また、毎日健康で、元気にご奉公に、仕事に、勉強にと過ごさせていただいている御礼のためにお勤めさせていただく法要でもあるのです。

ご信者の皆さん一人ひとりが願主です。報恩感謝の思いをもって、家族そろって賑やかにご参詣させていただきましょう。 

今月(2月)の「ファミリーデー」は、14日の日曜日、午前10時からで、「三祖聖人御修行」に併せて「高祖御降誕会」を併修させていただきます。

諸説ありますが、日蓮聖人は、承久四年(1222)今から788年前の2月16日。現在の千葉県小湊町に御降誕されました。

今月は私達佛立信者の教えの親である日蓮聖人のお誕生日なのです。ささやかですがご供養も準備させていただいています。子供たちには、小さな誕生日ケーキも用意しています。家族そろって参詣させていただき、廣宣寺挙げてお祝いをさせていただきましょう。

【佛立開導日扇聖人の御教歌】
思へ人祖師御出世のなかりせば 御題目は誰が手よりきく
| ■御法門 | 18:49 | - | - | pookmark |
互いを認め合って心を一つに!《御法門:松本良光師》
皆さんは【目玉焼き】に何をかけて食べますか?私は醤油ですが、きっと色んな答えが返ってくるに違いありません。塩、コショウ、ソース、マヨネーズ、ケチャップ…。中には「私は何もかけません!」という方もいらっしゃることでしょう。それに焼き加減にしたって「半熟の方がいい」と言う人もあれば、「完全に火を通した方がいい」という人もあります。たかが【目玉焼き】ですが、なかなか奥が深いようです。

このように、一つの物事に対して色々な考えや意見が生じるということは、私たちが生きていく中で頻繁に起こりえることです。例えば、育児や学校教育のあり方にしてもそうですし、会社経営や景気対策、また健康管理一つにしたって、どれも目指すところは一つなのですが、人によって色んな考えがあって、それだけ選択肢もたくさんあるのです。

しかし、私たちはどうしても「自分考え」という、限られた考え方にこだわってしまう悪いクセがあります。先ほどの【目玉焼き】の話で申せば、「目玉焼きと言えば絶対に醤油だ!」とか「いや、絶対にソースだ!」といった感じです。これと同じようなことを、私たちは普段の生活の中で頻繁にやっては、「それは間違ってる!」と、相手のことを簡単に否定してしまうのです。これでは意見が合わない者同士、ケンカになってしまうのは当然のこと。私たち大人は子供に対して「みんな仲良くしましょうね」なんて口では言っていますが、いざ自分のこととなれば相手のことを知り、歩み寄ろうとする努力がなかなかできていないもの。本当に恥ずかしい限りですよね。

そう思えば、やはり私たちお互いは「我を張る」ということを慎まなければなりませんし、わざわざ自分と違うところを探し出しては「それは違う」と否定しようとする、そんなつまらないことに力を注いでいてはいけないのです。これからはそんな視野の狭い生き方をやめて、自分と異なる意見を持つ方に対しては「そういう考え方もあるんですね」と、相手のことを知る努力をしてみる。そうすれば、きっと今まで以上に色んな考え方ができるようになって、お互いに人間として一回りも二回りも成長していくことができるはずです。また、自分と同じ意見の人とは、もっとお互いに向上していけるように切磋琢磨していけば、大きな力となることは間違いありません。こういった姿勢で、みんなが一つの物事に取り組んでいく。そうすれば、必ずやどんなことであっても達成していくことができるのです。折角、同じように一日という大切な時間を費やすのであれば、是非ともこういった前向きな生き方をしたいものですね。

【高祖日蓮大士御妙判】(日蓮聖人のお言葉)
異体同心なれば万事を成し、異体異心なれば諸事叶事なし
(異体同心事・昭定829頁)

どんな事であってもみんなの心が一つであれば物事は達成できるもの。反対に一人でもそれを乱そうとする人がいると決して達成することはできません。同じ目的を持っているもの同士、決して相手の批判をしたり、悪口を言ったりなどしてはいけません。争いは禁物なのです。故に、物事を達成する秘訣とは、互いを認め合い、心を一つにして、同じ目的に向かって進んでいくことなのです。 
| ■御法門 | 15:51 | - | - | pookmark |
25年の増益寿命 元気に御奉公の毎日《ご利益体験談》
廣宣寺所属信徒:久野悦子
廣宣寺報 昭和62年10月号 掲載分

私は生まれたときから体が弱くそのためよく病気をいたしました。そんな私を母は大変心配いたしまして、小学校の3年生の頃、大阪の一心寺というところで、私の将来を墨色判断で見てもらったそうです。その時、「貴方の子供は四十才までの命です」と言われました。ですから私も小さな時から「自分は四十までしか生きられない」と思っていました。

このご信心には、父が昭和十年に入信いたしましたが、私はそのころは、事情があって、田舎の祖母に育てられておりました。でも、昭和十八年、私が十八才になった時、神戸の親元に帰るなり、私は腹膜炎を起こしました。市民病院で診てもらったところ、入院しなければならないことになりました。病院から帰る道すがら、父がこう言いました。「おまえは今決心しなければならないときだ。一生この薬の世話になって生きて行くか、それとも、御宝前におすがりして、御利益を頂くかの二つに一つだ」。そう言われまして、私はその時から自分は生涯、御宝前におすがりして行こうと決心し、薬を道端に捨てて帰りました。

その日から毎日お線香十本のお看経を致しました。始めは一週間の予定でしたが、四日ぐらい経って、「もう大丈夫だろう」と、父が言いますので病院へ行きました。診ていただくと、「確か、前に来たときは腹膜炎だったはずだが、今は何ともないよ」と、お医者さんが不思議そうに言われました。こうして十八才の時、私は当病平癒の御利益を得て入信いたしました。

その後は、おはからいをいただいたとはいえ、元来の病弱の為、ほかの人のように外へ勤めには行けませんでしたので、御講参詣やお寺参詣に励みました。夏の暑い御講席で、日淳上人の後ろ、あるいは横から、うちわで扇がせていただいたことを今でも覚えています。

結婚いたしまして、主人の実家に行きました。そこは広島の大崎島という七里四方ほどの瀬戸内海に浮かぶ島でした。私は結婚の時、本門仏立宗の信心を続けさせていただくことを条件にしておりました。でも、実家ということで遠慮がありましたので、懐中御本尊をお持ちしておりました。

やがて、長男が生まれました。でも、丁度生後七十五日目に発熱しまして、医者の誤診もあって肺炎を起こしました。そのうちお乳も飲まなくなりましたので、この子は死んでしまうのかもしれないと思いました。そこで、御宝前に「なるべく早く神戸に帰って、御戒壇を建立し、お持ちさせていただきますので、どうかこの子を助けてやって下さい。助けていただけるのなら一週間以内に助けてやって下さい。もしだめなら、早く楽にしてやってください。」と一生懸命ご祈願しました。すると3日目に長男がお乳を飲みだしましたので、やっぱり御宝前様は助けて下さったと分かり、涙が止まりませんでした。
それからも色々とありましたが、昭和三十二年、主人のお母さんも一緒に全員で神戸に引っ越してくることができました。そして間もなく現在の家に住むことができる様になりました。最初は土地の月賦や色々のことで暮しは苦しかったのですが、いつも御戒壇のことが気になっていました。一日も早く御宝前様のお住まいを何とか荘厳させていただきたいと思っておりました。そこで、生まれて初めて、内職をすることにしました。外に出て仕事をすることは無理でしたので、少ない収入でしたが、家でこつこつと仕事をしました。そんな姿を見て、そのころはもう、こ信者となっておりました主人の親が、「いいかげんにしたら」といいましたが、内職でいただくお金は御宝前の為のお金と、心に決めて、いっさい手を付けず頑張りました。そして、3年経ってやっと8万円のお金がたまりましたので、先住のお導師様のお世話で現在の御戒壇をお迎えすることができました。また、お道員類は奥様がいっさいお世話をしてくださいましたことが懐かしく思い出されます。

それでも、よく御法門で「御宝前に使わせて頂いたものはかならず帰ってくる」ということをお聞きしておりましたが、この後すぐにそれを体験いたしました。といいますのは次の年に、どこからこんなお金が来たのだろうと思えるほど、いつのまにか同じ8万円の貯金ができており、とても不思議な思いをいたしました。それ以来、財の功徳を積むということは本当に大切なことだといつも思っています。

同居しておりました主人の母の晩年は、今でいう寝たきり老人でした。でも、子供達が協力してくれまして、家で、精いっぱいの世話ができました。その臨終は全くあっけなく眠るが如くでした。看護の苦労は大変でしたが、子供達も小さいながらそれぞれに頑張ってくれました。そのおかげかどうか分かりませんが、今度は、今の私に、もったいないと思うほど子供達はよくしてくれます。

最後に、お祖師様の七百回御遠諱の時、役中二十年の表彰を頂きました。小さいときから自分は四十才までの命と、単なる占いの判断とはいえあきらめていましたこの体が、御法様のおはからいを頂いて二十年も余命を頂き、さらに、まがりなりにもお役にたたせていただけたことの喜びを実感いたしました。

ご静聴ありがとうございました。
| ■ご利益体験談 | 10:46 | - | - | pookmark |
お正月《御法門:山内良鷲師》
この御法門がアップされるのが元旦だということで、この御教歌を選ばせていただきました。関西で言うところのベタな選択ですが、先ずは御教歌をいただきましょう。

【佛立開導日扇聖人の御教歌】
正月やガラスの窓に雪を見て 餅のかゆ煮て御書拝みつゝ

この御教歌は開導聖人のお正月の過ごされ方が良く分かる御教歌で、ご信心にたいする思いが良くあらわれていますし、好き嫌いの問題ではありませんが、僕の大好きな御教歌の一首なのです。

開導聖人はご晩年、二世日聞上人に講有位をお譲りになって隠居されました。京都麩屋町のご法宅。(現在の長松寺)ご参詣されたことのある方は、良くお判りだと思いますが、麩屋町のご法宅は、京都ならではの作りで中庭があり、縁側に手水(ちょうず)とそれはそれは趣のあるお家なのです。

長松寺

雪見障子がありまして当時としては珍しいガラスが入っています。開導聖人は、そこからお庭を御覧になり、去年のこと、今年のこれからのことを考えながら、お正月の静かで時間の止まったような感覚の中、お餅のお粥さんを火鉢で煮ながらも、お祖師様の御書に目を落とされている・・・

正月からお勉強をされている訳ですよ。と言いましても、焦ったようなガツガツした感じではなく、あくまでも雪を愛でながら、お正月の清々しい、音のない止まったような空気を楽しみながら・・・
でも、何か勿体ないような感じで、お祖師様のお意(こころ)をいただこうと御書を傍らに置かれて、「さてさて、今年はどうやってご信者と共々に改良させていただこうか?功徳を積ませていただこうか?」と考えられている・・・この御教歌からは、そんな開導聖人のお姿が浮かんでくるようです。

皆さんのお正月の過ごされ方はどうでしょうか?
朝からお笑い番組を見ながら、お雑煮を食べ、お節を肴にお酒をいただいて、「あーでもない、こーでもない」と言っている。・・・(笑)
確実にその中の一人が僕なんですが・・・あと30年もすれば開導聖人のご心境に少しは近付けるかな・・・


さて、少し話題を変えましょう。
お正月と言えば初詣です。今年もテレビでは、全国の名刹の初詣の様子が映し出され、晴れ着を着た奇麗どころのアナウンサーが、「こちら◯◯では初詣の参拝者は過去最高の◯◯万人を記録しました。」と報道されることと思います。

初詣に参拝される、その殆どの人が、景気の悪い時代ですから、「景気が良くなりますように」或いは「今年も健康で一年が過ごせますように」とお願いされるのでしょう。
 
しかし、良く考えてみると、これらの願いは、全て自分自身の為の願いです。景気が良くなってくれればお金が儲かり贅沢出来る。健康でもっと儲けたいし遊びたい。これらは言わば欲の願いなんです。

佛立宗の各寺院でも元旦会が奉修され、所属のご信者が参詣されます。皆と同じようにご祈願をされることでしょう。
しかし、「景気が良くなりますように」であっても、儲かってただ贅沢がしたい。ではないのです。ご信心で人助けが出来るようにシッカリ稼ぎたいであり、「今年も健康で一年が過ごせますように」もご信心で人助けをさせていただく為に健康でありたい。という願いなのです。佛立宗の有り難いところは、自分だけの願いとは違う、彼も喜び我も喜ぶと言う、このご祈願のあり方なのです。

廣宣寺でも、元旦の午前7時から、「元旦会・初御修行」が奉修されます。三ヶ日の間にご参詣される方も大勢おられます。
そして、参詣された方は、皆本堂の御宝前で御題目を唱えられ、今年も御題目で人助けをさせていただけるようにと御祈願されるのです。

御指南
弘通広宣を祈るは如来の御使也。諸天此人を守護し給ふ。また我身の罪障消滅には一切衆生を御法をもて助くる是第一也。

この御法門を御覧になっている皆さんは、どんなご祈願をされましたか?一年の計は元旦にあり。年始めのお願いはとても大事なものです。
欲の願いで一年を送るか?人助けの願いで一年を送るか?どちらの願いが運を開くかは言うまでもありません。
それでは皆さん、正しい願いで良い一年にさせていただきましょう。
| ■御法門 | 00:00 | - | - | pookmark |
心の大掃除《御法門:松本良光師》
平成21年も残すところ、あと僅かとなりました。一年という長い月日も、過ぎてみれば「早かったな〜」と思うものです。それでも、よくよく今年一年を振り返ってみますと、やはり公私共に色んなことがあったのではないでしょうか。そんな一年の締めくくりとして、私たちは家庭や学校、仕事場などの大掃除をさせていただき、新たな年を迎えるのです。

ここで忘れがちなのが、私たち自身の大掃除。もちろん、身なりをキレイにすることもそうですが、もっと大切なのは心の中の大掃除です。私たち人間はいつも清らかな心で生きている訳ではありません。むしろ、「ああしたい、こうしたい」「あれはイヤ、これはイヤ」といった欲望が強く、思い通りにいかずに腹を立ててしまうことだって多い訳です。結果、人を傷つけるような行いや発言をしてしまったり、よからぬ考えを起こしてしまったり…。

ですから、私たちの心の中というのは一年も経てばホコリまみれで、すっかり汚れきってしまうのです。中にはゴミ屋敷のようになってしまう方もあることでしょう。ホコリの一つひとつは目には見えませんが、一年間掃除をしなければ部屋の中は大変なことになってしまいます。それと同じで、私たちは普段の言動にあまり注意をしませんが、やはり心の中では毎日ホコリは積もり続けているのです。

ホコリやゴミがたくさんある所には、自然と害虫が好んでやってくるものですし、カビなども生えやすくなります。これもまた同じで、汚れた心には、やはりよくない因縁ばかりが生じてしまい、結果、自身にとっても、周囲にとってもマイナスなことが起きてしまうのです。これではどれだけ幸せをつかもうと頑張ってみましても、実現することは困難なことであるといえます。

だからこそ、心の中にたまったホコリをきちんと掃除することが大切な訳です。掃除とは申すまでもなく、ご信心をさせていただくということ。南無妙法蓮華経と何度も唱え重ねれば、仏様のお力によって、必ず心の中のホコリは徐々になくなっていきます。そうやって、ホコリ一つ無いキレイな心で新しい年を迎えることができれば、きっと素晴らしい一年のスタートを切ることができるはずです。

ただ、ここで注意していただきたいのは、部屋の掃除にしろ、心の中の掃除にしろ、年に一回の大掃除だけではいけないということ。やはり、少しずつでも毎日掃除をすることで、部屋も心もキレイな状態を保つことができます。そうすれば、いつも気持ちがいいものですし、健全な環境、健全な心は健全な人生を築いてくれます。そこにこそ本当の幸せが築かれていくことは当然の道理です。もちろん、年末の大掃除だって、いつも以上にキレイに仕上げることができるのです。

ご信心のある生活を送らせていただき、ホコリのたまりにくい心にしていく。そうすれば、今まで以上に素晴らしい人生を過ごせるに違いありません。「今後はそのようにさせていただこう」と、そのように思いを新たにすることができたならば、皆さんの今年の大掃除は大成功であったといえます!

【佛立開導日扇聖人の御教歌】
懺悔する心の内のすゝはきに 悪魔のほこりたゝき出されぬ
| ■御法門 | 15:37 | - | - | pookmark |
できると信じる《御法門:山内良聴師》
物事をやりぬく為には、「できると信じること」が大切なようです。はじめから「できるだろうか」「どうせ無理だ」と思い込んでいては、うまくいきません。

次のようなお話があります。日本電産の創業者「永守 重信」(ながもりしげのぶ)さんが、
「ゼロからここまで会社を成長発展させることが出来たのは、なぜだとお考えですか」という質問に対して答えたインタビュー記事の一部です。

ちなみに日本電産は電動モーターを開発、製造する会社で、とくに精密小型モーターの分野では世界一のシェアを誇っているそうです。精密小型モーターとはパソコンの中でディスクを回すのに使われているものです。

(永守重信氏曰)
信じる通りになるのが人生であるということですね。
僕はこの言葉を自分で色紙に書いて、目のつくところに置いています。

しかし世の中の人はみんな信じない。
頭のいい人ほど先が見えるから信じませんね。できるわけがないと思ってしまう。だからむしろ鈍才のほうが教育しやすいですね。

創業間もないころの日本電産は、私の家の一室で図面を引き、桂川の堤のそばにあった30坪ほどの染め物工場の1階を借りて、旋盤とボール盤、プレス機を1台ずつ入れて仕事を始めたんです。

どこへ行っても仕事はもらえず、やっと受注できた仕事といえば、過酷な注文がつくために、ほかのメーカーのどこもやらないような仕事ばかり。技術者みんなに言うと絶対無理だと言う。そういうときはみんなを立たせて、いまから出来る出来ると100回言おうというわけです。
「出来ます。出米ます。出来ます……」。「どうや」と。
「いや出来ません」。
今度は1,000回言う。
そうすると不思議なことにだんだん出来る気分になってくるんです。

そういう気分になったところで一気に始める。すると、客先の要求する性能に及ばないまでも、かなりレベルの高い製品が仕上がる。こうやって日本電産の技術力が蓄積されていったんです。このときに「とても無理だ」「不可能だ」とあきらめていたら、日本電産はとっくに倒産していたと思います。

社員によく言うんです。
「物事を実現するか否かは、まずそれをやろうとした人が“出来る”と信じることから始まる。自ら“出来る”と信じたときにその仕事の半分は完了している」とね。

このようなお話です。会社を実際に大きくした人の言葉だけに含蓄があります。
この「できる」と信じて物事にあたるということが、ただの根性論ではないことが現代の心理学では明らかになっています。

スポーツの世界では、試合で力を発揮する為に身体を鍛える、また、技術を学ぶということをしますが、それ以外にメンタルトレーニングといって精神的なトレーニングも大切とされています。このメンタルトレーニングの理論に「インナーゲーム」と言われている理論があります。「インナーゲーム」とは直訳すると心の中の試合という意味です。この理論の概要は、次の通りです。

『競技者は試合をしている相手以外に、心の中の自分と常に戦っている。心の中の「うまくいきそうにない」というような、否定的な考え方をする自分に、まずは勝つことが大切。そうすることで、自分本来の力を出せるようになる。』

つまり、否定的な考えを持っていると、本来の力を発揮できなくなるそうです。
ご信心の世界でも同じようなことが言えるのです。

信心(仏道修行)の目的をシンプルに言えば「苦しみを除き、まことの幸せを得るため」です。私たちそれぞれが、まことの幸せを得るために信心があるのです。
「先は真っ暗だ」
「どうせ私は幸せになれない」
「幸せというのがわからない」
仏さまの教えをいただいて信心に励むかぎりは、このような心配はいりません。仏さまの教えが、まことの幸せを得るために説かれているからです。
ところが、この大きな目的(まことの幸せ)を忘れて、信心している人が案外と多いのです。

「周りに勧められるから、とりあえず信心している」とか、
「信心は儀式だけを執り行えればよい」など、
始めから、幸せを求めるためには信心をしていないわけです。
このような気持ちでの信心ですから、教えが普段の生活に浸透しませんし、実際の修行もいい加減なものになりがちです。結局「しているような」「していないような」状態にしかなりません。これではせっかくの仏さまの教えに対しても、自分自身に対しても、もったいないことになります。

当宗の教え歌には次のようなものがあります。

【佛立開導日扇聖人の御教歌】
信心を閂いれてする故に 寂光浄土門も開かず
(十巻抄 三・扇全十四巻四二七頁)

「閂」とは、門戸をさしかためるための横木のことです。門扉の左右にある金具に差し通して用いるもので、現代の普通の家にはありませんが、時代劇で見ることが多いと思います。
「寂光浄土」とは、理想の境地をいいます。私たちが目指すまことの幸せの境地です。

幸せになれなくても別にかまわないと、自分で幸せが顕われ出てくる門を閉じてしまっている。自分で可能性を閉じてしまうような信心の仕方をやめなさいと、教えてくださる御教歌です。

教えをいただいたからには「私は必ず幸せを得ることができるのだ」という信念をもって、ご信心に励みましょう。
| ■御法門 | 21:31 | - | - | pookmark |